あらすじ
ある朝、薄明かりの中で目覚めた岡村みどりは、いつもと違う不穏な空気を感じた。台所で、母・聡子がにこやかに問いかける声が響く―「あれ持った?」その一言に、みどりはどこか奥深い違和感を覚えながらも、家を飛び出し学校へ向かう。
教室に着くと、数学の授業が始まった。黒板に浮かび上がる公式の数々にみんなが集中する中、ふと先生が問いかけた「円周率の値は?」の瞬間、みどりの中から確固たる記憶がふいに消え失せた。彼女は必死に頭を捻るが、数字や記号はもはや遠い霞のよう。すると、その日を境に、ほんの些細な記憶が次々と躯体を失う現象が起こり始めた。
放課後、通りを歩くみどりは、商店の看板、友人の笑い声、さらには自分の名前すらもが、ふとした瞬間にぼやけて消えていくのを感じた。途方に暮れた彼女は、記憶の断片を取り戻そうと、町の古びた書店へと足を運ぶ。そこで出会った一冊の古文書には、かつてこの町で「記憶リセット実験」が行われ、人々の不要な記憶を切り捨て、本当に大切なものだけを残すという奇妙な試みが記されていた。
紙面に綴られた言葉は、単なる偶然ではなく、すべての忘却に必然性があるという示唆をみどりに与えた。ふと、あの朝の聡子の問いかけ―「あれ持った?」―の意味が、単なる物の所在確認ではなく、失われかけた記憶の入口であることに気付く。自宅に戻ると、リビングの柔らかな光の中に、微笑む聡子が立っていた。彼女は静かに問いかける。「あなたは、ほんとうに大切なものを覚えている?」
みどりは戸惑いながらも、震える声で「覚えている…はず」と答えると、聡子は穏やかに首を振りながらぽつりと告げた。「その覚えは、明日への種。忘れることも、新たに生み出す力なのよ。」その瞬間、みどりの頭に閃く衝撃の真実。今までの『ど忘れ』は、彼女自身が内なる選別の試練を乗り越えるためのサインであり、過去と未来を繋ぐ鍵だったのだ。
すべての記憶が散りばめられた世界の中で、みどりは悟る。たとえ大切な数字や日常の些細な記憶が一瞬で消え去ろうとも、心の奥にしっかりと根付いた真実は、決して消えぬ灯火であり、それが彼女の未来を照らす光となるのだと。

















































